母親の愛について想う

母親の愛について想う

德増幸雄(福岡県警元総務部長)

 

(『致知』2012年5月号 より)

 
 私が福岡県のC警察署で署長を務めていた平成十八年の出来事です。管内の山中で三十歳代の女性の自殺遺体が発見されたとの報告を受けました。家出人捜索願が出ていたので、すぐに身元が判明しました。その方は家庭内の不和で、悩んだ末に幼い二人の娘さんを残して家出、マイカー内で練炭自殺を図ったのです。
 警察は、医師が看取った遺体以外、病死、自殺、事故死などすべての遺体を検視しなくてはいけません。犯罪の疑いがある場合は司法解剖をします。核家族の増加により一人で亡くなる方も増え、私たちの管轄する地域でも年間三百体以上を検視してきました。
 綺麗な遺体ばかりではありません。焼死体、轢死体、腐乱死体、水死体など思わず目を覆いたくなるものもありますが、刑事たちは礼を失することなく淡々と検視に当たります。
 検視のたびに感情移入していていてはPTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまいますし、冷静さを失えば犯罪死体を見逃すことになりかねないからです。警察官は誰に教わるともなく、心に鎧を着せて、この辛い仕事と向き合うことを覚えていきます。
 ところが、この練炭自殺を図った女性を検視した時、いつも冷静な刑事課員たちの様子が少し違いました。皆目を真っ赤にしているのです。いぶかしく思った私は、責任者の係長に「どうしたんだ」と聞きました。
「署長、これを見てください」 刑事係長は、女性の遺体とともに発見された一枚の写真を差し出しました。
 遺体発見直後、女性が右手に何かを力強く握りしめていることに気づいた刑事課員が硬直した指を広げると、ビニールに丁寧に包まれたプリクラ写真があったといいます。そこに写っていたのは、自殺した女性と二人の娘さんの笑顔の姿だったのです。
「このお母さん、いったいどんな思いで死んでいったのでしょうか」
 係長は泣きながらそう説明しました。刑事も自分の子や母のことを思ったに違いありません。一枚の写真が刑事たちの心の蓋を外してしまいました。私もその写真を見た途端、すべてを理解し涙が溢れました。
 私は「このことをご遺族、とりわけ二人の娘さんには必ずお知らせするように」と指示して遺体安置室を出ました。自分たちを置いて家出をしたお母さんを恨んでいるかもしれない娘さんたちに、少なくとも母親が子供たちのことを思いながら死んでいったことを知ってほしいと思ったのです。
 この事件を通して、私は自分の幼少時代を思い出していました。私は小学校四年の時に父親を亡くし、半年後には母もリウマチで入院。一年半の間、一人で食事をし、退院の日に母をリヤカーに寝かせ、病院から自宅に帰った日のことをいまも忘れることができません。
 高校卒業後は、頑張れば頑張るだけ報われると聞いていた警察官を拝命。速度違反の取り締まりや事故処理などを行う交通課を中心に勤務し、警視になって以降は暴走族対策室長、銃器対策課長、総務課長などを経て、定年までの二年半は県警本部総務部長という重責を務めさせていただきました。
 学歴もない、文字どおりたたき上げの私が四十二年間、無事職責をまっとうできたのは、苦労する母に心配かけたくないという思いと、幼い頃から聞かされていた母の教えがあったからだと思います。
 幼い頃、お使いを渋る私に厳しい口調で母は言いました。
「なぜ最初からハイと素直に言わないのか。そうすればあなたもお母さんも気持ちいいだろう。どうせやらなくてはいけないことなら、ニコッと笑って最初から気持ちよくやりなさい」
 厳格な母も二十五年前、私が三十五歳の時に他界しましたが、この言葉はずっと頭を離れることはありませんでした。
 人間社会の様々なダークな部分と向き合うのが警察の業務です。嫌な仕事、面倒な仕事が毎日のように舞い込んできます。ついつい後回しにしたくもなりますが、そういう時、心の支えになったのが母の言葉でした。嫌な仕事はチャンスと思い、まず先に片付ける習慣を三十年、四十年と続けていく中で、私自身も少しずつ成長できたように思います。
 人間の成長にとって両親、ことに母親の影響がいかに大きいかは、長年の警察活動を通して感じたことでもありました。
 数多くの暴走族少年と向き合ってきましたが、その大半は家庭や学校での孤独や疎外感を違法行為によって埋め合わせようとしていました。少年と真剣に向き合う警察官を通して初めて大人の愛情を知り、更生していく姿を目の当たりにする時、子供たちの愛情の飢餓感について思ったものでした。
 一方、東日本大震災では多くの親が子を失い、また多くの子供たちが親を失いました。子供をその胸に抱いたまま息絶えた母親の遺体もあったそうです。そして、いまも不明の子供の遺体を捜し続ける親がいます。そこには愛を注ぎたくても注げない現実があります。
 いまほど親子の絆が求められる時はありません。日常生活の中でともすれば忘れてしまいがちな母の愛、恩について、どこかで嚙みしめてみることも現代人には必要ではないでしょうか。

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「人間力.com」は月刊誌『致知』より引用しています。

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