「母とコロッケ」

「母とコロッケ」

門倉清次郎

 

(『経営問答塾』より)

 
あれは小学四年、夏休みのことである。
もう五十年も前のことなのに今でも私はコロッケを見るたび母を想う。
あのひるめし時、無言で耐えてくれた母の姿から、私は大きな教訓を学んだ。
業界で、「あいつは口の堅い男」と私を評価してくれる向きもある。
だとすれば、母の教えが現在も生きているのである。

戦前の食生活、それは貧しいの一語に尽きる粗食だった。
カツ、コロッケ、バナナなど、いま常食になっているものさえめったに食卓にはのらなかった。
麦飯に漬物、これが農村の年間メニュー、現代のヤングには理解しがたい一面であろう。
貧乏だったわが家もそれ。
私は、その日のことがあるまでコロッケに大きな願望を抱いていた。
「一度でいいから食ってみたい」と。

その日、私は街に用事のある母に連れられて一緒した。
帰り道のこと肉屋の前にさしかかると、いい匂いが漂ってきた。
見ると、コロッケを揚げている。
「かあちゃん、コロッケ買って!」
私はほとんど衝動的にせがんだ。
母は私をチラッと見ながら、
「そんなムダ遣いしたら父ちゃんに叱られるじゃないか。さ、帰ろ」
と私の手を引いて行きかけた。
「いやだぁ、一回でいいからコロッケが食いたいよ、かあちゃん」
この声に母の足が止まった。
私の顔をのぞき、その視線を店先へ移した。
「清次、そんなに食いたいのかい?」
「うん。学校で食ったことのないのはオレだけなんだもの」
「……」
母の思案している気持ちが、つないでいる手の温もりを通して私に伝わった。
「コロッケなんか買ったら父ちゃんの雷が落ちるんだから。母ちゃん知らないよ」
そういう母だったが、足はもう店頭へ歩きはじめていた。

その日のひるめし時がきた。
母と五人きょうだいが膳に就き、父も座りかけた。
私は、コロッケが食べられる幸福感と、起こるであろう父の怒りへの恐怖が入り交じって、体を堅くしながら食卓と父を見比べた。
「なんだ、このお菜は!」
膳を見るなり父の怒声が母へとんだ。
食卓には、コロッケの盛られた皿と、漬物が山盛りの大ドンブリが並んでいる。
私は反射的に母を見た。
清次がうるさく言うから仕様なく、の母の言葉が当然出ると覚悟した。
だが、母は無言、うつむいたままだ。
「……」
「何て考えなしの買い物をする!メザシでも買ったらよかったのに。
こんなぜいたくする銭は、うちにはねえ」
 父は声を荒げて母をなじった。
 うつむいたままの母が言った。
「いくら貧乏してたって、たまには他人様の子が食ってるもんぐらいは食わして……」
 小声で語尾は聞き取れなかったが、私のことはおくびにも出さなかったようだ。
 父はなおくどくど言い募ったが、その後の母は視線を膝に落とし口をつぐんだままだった。
途中から、私は母にむしゃぶりついていきたい衝動が、心いっぱいにあふれてきた。
「かあちゃん、ありがとう」と。

 父の怒りもやっと静まり、みな箸を取った。
 生まれて初めてのコロッケのうまかったこと。
 あの味覚はいまも鮮明におぼえている。
 食事は終わった。
「みんな、うまかったかい?」
 母は優しいまなざしで私らを眺めながら聞き、視線を私にとめて言った。
「清次、うまかったろ!」
 母の目が、笑っていた。

 この小さな出来事は単に忘れられないにとどまらなかった。
 私の成長につれ、出来事もまた心の奥で発酵し、熟成し、現在、私の処世に欠くことのできない美酒となって芳香を放っている。
 子供のころは、かあちゃんが黙ってくれたので叱られずに済んだ程度にしか考えなかった。
 だが、年が経つにしたがって、出来事は深さも重さも増してきた。
“告げ口はすべきでなく、相手の側に立って、言う言わないを決める。これが信頼の基本だ”というふうに育ってきた。
 結婚し、子を持ってみて、“無言”の大切さは身に沁みて心に根付いている。
「清次、うまかったろ!」の母の一言は、私にとってどんな名曲を聴くより感動的な響きを秘めている。
 まもなく還暦を迎える今でも、コロッケを見るたびに、無言の母の姿がまぶたにくっきりと浮かび、胸を熱くするのである。

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「人間力.com」は月刊誌『致知』より引用しています。

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