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英霊たちへ捧げる写真

坪本公一(水中写真家)

      

(『致知』2006年9月号 致知随想より)

 太平洋海底に眠る英霊の慰霊と沈没艦船の撮影を続けて三十余年。
 写真店経営で得た利益や本の印税をすべて注ぎ込み、
 切ったシャッターの数は四万回を超える。

 遺族でもない、軍隊経験もないおまえが
 私財を擲ってなぜそんなことをする、と誰もが訝しがる。
 自分自身にもはっきりした答えはない。

 ただ、私の活動をテレビなどで知った遺族の方が
 訪ねてこられたり、弟を亡くされた老人が
 「とにかく一緒に行ってほしい」と
 新聞を握り締めたまま飛んでくるのを見れば、
 どうしても放ってはいられなくなる。
 
 詰まるところそれは「自分が日本人であるから」
 とでも言えるのかもしれない。

 太平洋戦争の激戦地となった海底に、
 いまだ百万柱以上の遺骨が放置されている
 現状を知る日本人はほとんどいない。
 かつてはこの私もそうだった。

 沈没船の存在を知ったのは、昭和四十八年。
 ミクロネシアのトラック諸島で
 仲間とダイビングをしていたところ、
 海底に傷ついた船体と散乱した遺骨を発見した。
 
 帰国してからもずっとそのことが気にかかり、
 翌年撮影に行く準備をしていると、
 噂を聞きつけたテレビ局から番組出演の依頼があった。
 
 当初、私の目的は沈没船の撮影にあったが、
 共演していた薬師寺管長の高田好胤さんが突然、
 
 「坪本さんたちが今度、トラック諸島で水中慰霊祭をやる。
  故人をしのぶ酒や果物、戒名を書いたハガキ、
  なんでもいいから送ってください。現地で供養してきます」
  
 と茶の間に呼びかけたのである。
 
 番組には、全国から千通にも及ぶハガキと
 山のような供え物が届けられた。

 そして放映当日。
 テレビ局には番組が終わらないうちから
 「よくぞやってくれた」という反響が続々と寄せられ、
 自宅の電話もまる二日間鳴りっぱなしの状態。
 
 それが一段落すると、今度は手紙やハガキが
 嵐のように舞い込んだ。
 
 とりわけ印象深かったのが、ある老女から届いた手紙である。
 「主人の慰霊にいつか行きたいと思っていたけれど、
  いままでずっと行けませんでした。
  きょう番組を見ていて、思わずブラウン管の前で
  両手を合わせていました」。

 最後には、娘さんの言葉がこう添えられてあった。
 
 「母をいつの日か父の終焉の地に連れていってあげたい。
  それが私に残された唯一の親孝行だと思います」。
  
  
  ――私が亡き人々の慰霊と、鎮魂を込めた撮影を
  生涯の仕事と決めたのはこの時だった。

 以来、パラオ諸島やフィリピンなど、
 七か国の海を百回以上訪れたが、特に衝撃的だったのは、
 特設巡洋艦「愛国丸」の遺骨収容作業に同行した時のことである。
 
 同艦は米軍の爆撃に遭って轟沈し、船上には
 千名近くが便乗していたとされる。

 私も命がけで水深七十メートルまで潜り、
 真っ暗な船内を強烈なライトで照らし出すと、
 あたりは骨、また骨。何十センチと積もるヘドロに散乱した
 肋骨や大腿骨、こちらをギロッと睨むような頭蓋骨……。
 
 しかし、怖いという気持ちは不思議となく、
 私はとにかくこれを国民に知らせたい一心で、
 一秒でも長くフィルムを回そうと感じていた。

 一か月間をかけ、引き揚げた遺骨の数、三百五十体。
 甲板で遺骨を洗い流すとヘドロやサビが血のように流れ出て、
 青々とした海に赤茶けた帯がかかった。

 なお水中慰霊の際には、組み立て式の祭壇を海中に持ち込み、
 供え物をして両手を合わせる。
 同行した遺族は船上から花束を投げたり、
 酒を注いだりして慰霊を行うのだが、
 愛国丸の時には、父の顔も知らずに育ったという遺児の姿があった。
 
 慰霊が終わると、彼はズボンを下ろし、
 海パン一丁になったかと思うと、看板の縁に駆け寄って
 「お父さーん!」と叫びながら
 海の中に飛び込んでいった。
 
 しばらく周辺を泳いで戻ってきた若者は
 
 「親父と同じ海水を飲んできた。
  これで自分も同じ気持ちになれた」
  
 と言って胸の支えが下りたような顔をしていた。
 
 終戦五十年の年には、パラオ諸島で給油艦「石廊」の
 水中慰霊を七十歳の方と行い、全国で放映された。
 
 それを見ていたのが当時、七十七歳だったある老人。
 彼はその日からずっと日本海で泳ぎの練習を続けたという。

 沈没から六十年を迎えた一昨年、八十六歳になっていた彼に、
 水中慰霊祭をやるから来るかと尋ねたら、
 即座に「行く」という答えが返ってきた。

 二人で現地へ向かい「ここ(船上)から花束を投げるか」
 と言ったが、彼は
 
 「いや、潜ってやらせてくれ。死んでも俺はやる」
 
 と言う。結局水深二十五メートルまで潜り
 二人で慰霊を行った。

 船が沈没した当時、老人は部下二十人を率いる
 上等機関兵だったという。
 
 自分だけが偶然、機関室を離れていたところへ直撃弾が落ち、
 そこで部下全員の命を失った。
 
 六十年もの間、部下たちを思い続けてきた老人の気持ちは、
 一体いかほどのものであっただろう。

 戦後六十一年目を迎えた今年。
 毎年夏になると行われる慰霊も、
 メインとなるのは陸上ばかりで、
 水中慰霊はほとんど話題にも上らない。
 
 戦争の傷跡が姿を消していきつつある現在、
 太平洋各地にいまも残る艦船は、沈没した当時のまま、
 英霊の遺骨とともに朽ち果てていく運命にある。

 しかし今日の日本を考える時、
 私はこの平和の礎となってくれた英霊たちの存在を
 思わずにはいられない。
 
 今年七十歳になる私だが、一人でも多くの方に
 沈没船と遺骨の存在を知ってもらい、
 二度とこのような惨劇を繰り返さぬよう、
 体力の続く限り活動を続けていくつもりだ。

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「人間力.com」は月刊誌『致知』より引用しています。

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